記憶と現実のズレを埋める「修験」の入り口 〜奥駈への道 第二回〜

昨日は、厚い雲と予想外の強風。
凍える寒さに阻まれ、2時間・累積1,000mほどで切り上げざるを得なかった。

そして本日。
天候は一転、穏やかな晴れ。里山縦走トレーニングへ。

開始早々、脳内メモリーにある「かつての軽快な動き」と、目の前の「動かない身体」のギャップに愕然とする。
弱った心肺機能、鉛のような足取り。
それを『意志の力』だけで無理やり前進させている感覚だ。

記憶と現実のズレを埋めるには、逃げずに定期的な刺激を入れ続けるしかない。

たった5時間半の行動で消費エネルギーは3,000kcal。
胃酸が込み上げ、内臓まで悲鳴を上げている。
この数字と疲労感こそが、今の自分の現在地を冷徹に物語っている。

目指す大峯奥駈道。
一日の行程で、連日、今日の倍以上の強度(時間・距離・累積標高)が求められる修験の道。

正直に言えば、今は今日の内容だけで精一杯だ。 

だけど、それでいい。
このボロボロの感覚から、すべては始まる。 

残り六週間をかけて「奥駈の身体」へと再構築していく。

辻褄が合うその日まで、一歩ずつ。

人生の醍醐味は、『過程』にこそ存在するのだから。

【大峯奥駈道】聖地をつなぐ修験の道 〜奥駈への道 第一回〜

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古代より山は死者の魂の赴くところであり、その山に入ることは死を意味するとされた。

修験道は、この他界の地で苦行・修行することで仏となり、山から出る時には清らかな心身となって生まれ変わるという『擬死再生』の信仰が息づいている。

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大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、1300年前 – 開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれた、奈良の吉野と和歌山の熊野本宮大社を結ぶ、全長約100kmに及ぶ 日本最古の「修行の道」です。

他の参詣道(熊野古道など)が「目的地へ向かうための道」であるのに対し、大峯奥駈道は「歩くこと自体が修行」とされ、標高1,000m〜1,900mの険しい峰々を縦走する修行の場である。

また、道中には「靡(なびき)」と呼ばれる75の神域・聖地が点在しており、修行者たちは、これらを一つひとつ巡り、祈りを捧げながら進む。

【懺悔懺悔 六根清浄】

懺悔(さんげ)懺悔(さんげ)六根清浄(ろっこんしょうじょう)

これは、修験道の山伏や巡礼者が登山・修行中に唱える山念仏。

過去の過ちや六根=六つの器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)の汚れを懺悔して払い、清らかな身心で神仏に近づくことを意味します。決して自分を責めることではなく、「心の塵を払い、素直な自分に戻る」ことを指す。

《六根》
▪️眼(げん)
視覚:欲に溺れず、真実を見る。
▪️耳(に)
聴覚:雑音に惑わされず、清らかな音を聞く。
▪️鼻(び)
嗅覚:生命の香りを嗅ぎ分ける。
▪️舌(ぜつ)
味覚:言葉を慎み、慈しみの味を知る。
▪️身(しん)
触覚:行いを正す。
▪️意(い)
意識:心の内側を清らかに保つ。

大峯奥駈道のような過酷な修験道で、肉体の極限状態の中、繰り返し唱えることによって感覚が研ぎ澄まされる。
また、「懺悔」によって古い自分を捨て、「六根清浄」によって新しい感覚を手に入れる。まさに大峯が象徴する「死と再生」のプロセスを言葉にしたものと言えます。

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大峯奥駈道と出逢い三年。
今春も、この100kmの修験道を縦走するため、身体づくりを始めている。

大峯千日回峰行を成した大阿闍梨が提唱する「歩行禅」。

その一歩に命を懸ける歩みが「歩行禅」ならば、 私は山を駆け、風と一体になる『斗走禅』の境地を目指したい。

【極限の中でこそ感じられる世界がある】

疲労が限界を超えた先で、景色は『見るもの』から『溶け込むもの』へと変わる。
そのとき初めて、自分が山と一体になる。それこそが奥駈の真髄だと感じています。

山は、自分を飾る一切の社会的能力(肩書き)が削ぎ落とされる場所。
残るのは、ただ一人の人間として「意志と身体」だけである。

1300年、幾多の修行者が命を削り、祈りを積み重ねてきた道。
そこには、単なる自然を超えた、凄烈な歴史が宿っています。

限界の先にある世界へ。

-懺悔懺悔 六根清浄-


(追記)

※ちなみに、私たちが日常で使う「どっこいしょ」という言葉は、この「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」がなまったものという説があります。重い腰を上げる時、私たちは無意識に自分を清めているのかもしれませんね。